8月9日金曜日
モノリスの倉庫で行われた、35mmフィルム映画の上映。
鑑賞したのは、1999年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された『アンダーグラウンド・オーケストラ』
作品を通してわたしの記憶には、パリに住む彼らの記憶と、彼らのそばにいた監督の記憶が流れ込んだ。(→「生活の記憶をたどって。1」参照)
この日のプログラムは2部で構成され、映画の鑑賞後はトークセッションへと進んだ。
ここでは、長年「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に通われている川島先生と、
2回の参加歴のわたしで、かつての山形映画祭と今の山形映画祭について話をふくらませた。貴重な体験に感謝している。
昔も今も変わらないのは、山形の映画祭には、観客や監督といった垣根がないということ。
誰もが、〝ドキュメンタリーに関わる人〟という立場で、山形に来る。
監督は普通に街を歩いているし、映画館では思いがけず隣に座っていたりする。
夜に映画好きが飲んで語らう「香味庵」では、めちゃくちゃドキュメンタリーについて熱く話していた相手が監督だったりする。
みんなドキュメンタリーが好きなのだ。
ドキュメンタリーと聞くと、わたしを含めた若い人たちはあまり馴染みのない人が多い印象が強いけれど、案外近くにある。
何気なく撮影した友人との会話、街で見かけるストリートライブをアップした映像。
生活の記録は、こんなにもわたしたちのすぐそばにあり、みんな知らないかもしれないけど、そこにはきっと間違いなくドキュメンタリーの要素がある。
その記録を、記憶を、手のひらにある小さな端末で、 わたしたちはいつだって、受信し、発信できる立場にいるということ。
一方で、隠ぺいされる事実や、語られるべき本質が蔑ろにされてしまう現実に、
わたしたちはもっとよく向き合わなければならないと思う。
ドキュメンタリー映画は、ただの記録映画ではない。事実だけの映画ではない。
知らないことが多すぎる、隠されていることが多すぎる、日本にも、世界にも。
それでいて、ニュースですらSNSの話題に左右される毎朝に、きっともう誰もがうんざりし、メディアはいつだってわたしたちの味方ではないということにうすうす気づいている。
知りたいのは、そんなことじゃない。
そんなわたしたちが、もっと、わたしたち自身の過去と未来のことを考えるために、
〝映画〟が〝ドキュメンタリー〟が〝映画祭〟が存在していると思うし、
見えないものを見るためにわたしたちは生きているのだと思う。
そして、わたしたちの持つ、ゆるやかな暴力性とたしかな可能性を、もっと知るべきだ。
そうすることで、今よりもっと、世界が広がる瞬間がたしかにある。
そのことを、わたしを含め、あなた方は気づくことができるはずなのだ。
10月。令和になり、はじめて迎える「山形国際ドキュメンタリー映画祭」
見えないものを見るために、わたしは今年も山形へ足を運ぶ。
なぜわたしたちはカメラを回すのか。記録をし続けるのか。発信をするのか。
そして、ひとつの映画祭がこんなにも長い間続いていることの重要性について、 もう一度考えてみたいと思う。
あなたと、わたしとで
著: R.Morimoto (N.U.I.project)
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