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応援・賛同メンバー 02

バシェ音響彫刻 ~ 音の軌跡を未来につなぐプロジェクト ~ https://camp-fire.jp/projects/view/300732 応援・賛同メンバー かわさき よしひろ Yoshihiro Kawasaki サウンドアーティスト・サウンドデザイナー フィールドレコーディングの草分け的存在。 1990 年より衛星音楽放送 ST.GIGA のプロデューサとして世界中でロケし、 音の収録、番組制作に従事。CD、DVD など約20作品を制作。

1995 年 InternetExpo を皮切りにネットワークのストリーミング作品を制作、「SoundExplorer」「Soundbum」「AquaScape」「Forest Note」などの WEB サイトに携わる。 サウンドアート作品は 96 年より、日本科学未来館「世界の音を聴こう !」21世紀美術館の「mind the world」など制作。ドイツ、スペインなどを含め国内、海外で多数発表。 日本科学未来館のプラネタリュウム・メガスターの音を制作、谷川俊太郎氏とのコラボ作品 「夜はやさしい」などがある。FM 放送 J-wave の「Blue Planet」「Voyage」などの番組制作。 サウンドスケープ調査は震災後の神戸、東北沿岸部の調査など続行中。 日本サウンドスケープ協会は設立より関わり事務局長、常任理事などを歴任。 2000 年より東京藝大先端芸術表現学科、多摩美術大学などで音の表現を教え、 現在、京都市立芸大芸術資源研究センター研究員、和光大学講師。 サウンドスケープ協会代議士に就任。 【蘇った 50 年前の新しい楽器と音】 ~ バシェ音響彫刻の修復、そしてコンサート ~ 今回 AMC「装置とは限らない」展において、バシェの音響彫刻「勝原フォーン」が展示され、それを使用した、コンサートが 行われた。多くの人はこの音響彫刻を初めて目にし、初めてその音を聞いたかもしれない。この勝原フォーンは 2017 年に東京 藝大取手校地にあるファクトリーラボでクラウドファンディングにより修復されたのだが、実はこの勝原フォーンが製作され、 展示された 1970 年の大阪万博 EXPO’ 70 の会場、鉄鋼館では勝原フォーンは会場の天井に吊り下げられ、その音を聞くことは 不可能であった。なので、今回のコンサートでその音を聞いた人は、「50 年前の新しい音」に巡り合った訳である。 バシェ音響彫刻とは? 音響彫刻の製作者フランソワ・バシェは、1920 年パリに生まれ、パリを拠点に彫刻家としてスタートし、金属板などを使って 彫刻を造っていました。ある時自然の要素をそれに取り込む事を考え、風や水で動く彫刻を造りました。それは同時に彫刻に 音の要素を取り込む事でもありました。1952 年頃よりフランソワ・バシェは音響工学を学んだ技術者の兄のベルナール・バシェと共にバッシェ兄弟として、既存の楽器の分析を行い、音響上の目的にかなった、金属とガラス棒などを使った作品を造るよう になりました。彫刻に人が関わり、演奏する楽器としての音響彫刻の誕生です。 この頃には音響彫刻の原型とも言える作品を36個制作しています。 1955 年には作曲家ジャック・ラズリーと実験的オーケストラ「ラズリー・バシェ音響グループ」を結成。グループを率いて、 ヨーロッパと米国でコンサートを行い、あのエドサリバンショーにも2回出演しています。その後も、バッシェ兄弟は、世界 各地で制作活動を行い、様々な音響彫刻を造りました。しかし、一つとして同じ物は無く、オリジナリティにあふれる作品を 造り、多くの美術館、ギャラリーで展示と演奏が行われました。 当時のフランソワ・バシェの言葉に以下のようなものがあります。「“いまでも演奏の際使われているのは、依然として18世 紀に設計された楽器が主体で、これらが中心になっている” という考えが私たちにあったからです。18世紀以降に発明された 楽器と言えば電子楽器くらいなもので、だからこそ近代の作曲家たちは極端に走り、聴衆との連携をなくしてしまっているので す。私たちの答えは “新しい楽器” これなのです」そして、フランソワはさらに音響彫刻に接した人々を見てこう語っています。 「反応はすごいものでした。ある部屋にピアノがあるとピアノが弾けようが弾けまいが、皆ピアノにへばりついてショパンの難 しい曲をやってみようとするんですよ。ところが従来の楽器では手も足も出ないんで、もう触れてみようという人もありません。 ところが私たちの楽器では事情は全く違っていて、楽器を怖がる人なんか一人もいないし、いろいろ触っていては結構楽しんで いったありさまでした」 (EXPO’ 70 鉄鋼館資料より )

実は、フランソワ・バシェは ,〈音響機構と将来〉という文章では、以下のように述べています、「兄のベルナールと私とは次の三つの 要素を合成したいと考えている。 1 形態 2 音響 3 大衆の参加 われわれは手によって(つまり、電気や電子によってではなく)音楽を作り得る形態と物質を作っている。従って誰でもこれらを演奏 することができる。」 また、当時様々な批判にあったようで、このように述べています、「音楽家たちは言った “こんなもの音楽じゃない” と。そして、造形 芸術家たちは言った “こんなもの造形芸術じゃない” と。だが事態は好転した。4ヶ月間にわたって行われたニューヨークの近代美術館 での展覧会の後では、我々は未来を予見することがずっと容易になったのである」 (EXPO’ 70 鉄鋼館資料より ) 実際当時のエドサリバンショーを見てみると、奇妙な楽器を操る、まるで見世物楽団のような扱いを受けている。しかし、実はあのジョ ン・ケージもこの番組では、バスタブを使って変なことする音楽家として紹介されている。当時の現代音楽は実に奇妙のことをする人た ちの、変な音?変な音楽?だと思われていたのであろう。 さて、上記のことで特筆すべき点は、新しい楽器を作り、それを誰もが演奏する、「大衆の参加」ということを挙げている点であろうか。 誰でもが触れて楽しめる楽器。練習に練習を重ねてようやく演奏することができるそれまでの楽器ではなく、誰でもが簡単に演奏できる 楽器。そして、音響彫刻には、音階を設けるという考えはなく、一部の楽器を覗いて音階はなかったので、奇妙な音と取られたのかもし れない。また、美術の面か ら見ると音響的な要素が考慮されている造形物は、視覚優先の芸術からすると、芸術的造形物ではなかったの であろう。つまり、楽器でもなく彫刻でもない。しかし、彼らは、そのことに新しいものを作っていく、未来の可能性を感じていたので あろう。 なお、後に変化していくクリスタルバシェ(ガラス棒をこすり演奏する音響彫刻)では、音階が明確になり、バッハの曲が演奏される 楽器に発達している。そしてプロの演奏家が生まれている。それは、フランソワ・バシェ自身は、音階はあまり問題にしてなかったが、 音響彫刻の持つ可能性をさらに広げたい音楽家の弟子たちが発展させていったものである。実はフランソワは音階に興味を示さないと いうより、むしろ音階を省くことで誰もが楽器に触れることができ、楽しめるものを作りたいと考えていたようである。しかし、後の 大阪万博ではこのことが大きな問題になってくる。 参考の為、以下に大阪万博までの主な展示を挙げておく。 (1970 年頃までの主な展示 EXPO’ 70 鉄鋼館資料) 1958 年 世界博フランス館(ブルッセル) 1963 年 装飾美術展(ルーブル美術博物館) 1965 年 近代美術館(ストックホルム)ベルン美術館(ベルン) 美術宮殿(ブルッセル)近代美術館 ( ニューヨーク ) ニューヨーク大学(現代芸術ギャラリー) 1966 年 科学と美術展(メキシコ市大) 芸術ホール(バーデン・バーデン)芸術クラブ展(ドユッセルドルフ) ワッデル画廊(ニューヨーク) 1967 年 インディカ画廊(ロンドン)文化館(アミアン) ワッデル画廊(ニューヨーク) 1968 年 メキシコオリンピック(メキシコシティ) 1969 年 トロント科学館(トロント) 日本で製作された音響彫刻 1970 年日本万国博覧会(大阪万博)の折、鉄鋼館では 1008 個のスピーカーを配した球形のシアター “スペースシアター” が造られ、 作曲家武満徹がプロデューサーとして迎えられた。武満はそのスペースシアターのホワイエに展示するオブジェとして、カナダの博覧会 で見たバシェ兄弟の音響彫刻(当時は楽器彫刻とも呼ばれていた)を選び、日本での制作展示を依頼した。フランソワ・バシェは助手の アラン・ヴィルミノと前年の 1969 年に来日し、大阪の後藤鉄工所で制作を行い、17作品を助手たちと作り上げた。その時に助手として 手伝った日本人の若者たちの名前が作品に付けられている。これ らの作品は本来触ることができ、音の体験ができるものであったが、 一部は展示の問題から天井に吊り下げられたり、展示を控えたものもある。しかし、来館者の多くがバシェの音響彫刻に触れ音の体験を 楽しんだ。 武満はこの音響彫刻のための曲「四季」を作曲し、不完全であったが会場での演奏会が行われた。また、この音響彫刻を使い高橋悠治の 曲が制作され、スペースシアターで流された。また、黒澤明監督の映画「どですかでん」でも武満が音響彫刻を使用している。 作曲家武満がいなければ、バシェ音響彫刻は日本になかったかもしれない。 大阪万博の後の空白期間、そして修復へ 大阪万博終了後は、各パビリオンは解体されたが、スペースシアターを内蔵する鉄鋼館は残された。しかし、音響彫刻は一部は授与され、 残りは解体され倉庫に詰め込まれた。 そして、誰も振り返ることなく「新しい楽器、音響彫刻」は暗闇に置かれた。 2010 年鉄鋼館が EXPO’ 70 パビリオンとして、大阪万博の資料館に生まれ変わることになった。その時、倉庫に眠っていた池田フォーン が万博資料として修復され展示されることとなった。この修復は展示業者が行った。この展示がニュースで流れ、このニュースを見た当 時の助手であった川上氏が鉄鋼館に行き、残された音響彫刻の修復を申し入れた。そして鉄鋼館が動き、まずは2作品が修復されること になり、2013 年バルセロナ大学のバシェ研究者マルティ・ルイツが来日、川上氏とともに修復作業を行った。その結果「川上フォーン」 と「高木フォーン(関根フォーンとも言われている)」が修復され、再び鉄鋼館のホワイエに展示されることになった。更に 2015 年東京 国立近代美術館でのバシェ音響彫刻のシンポジウムが行われ、その年の秋、京都市立芸大柿沼研究室と京都芸術センターの共同事業とし て、「桂フォーン」と、「渡辺フォーン」が修復された。これに川上フォーン、高木フォーンを加え4作品(4基)による、武満作曲の「四季」が京都芸術センターにて再演された。その後、桂フォーンと渡辺フォーンは京都芸大に展示され、この一連の動きは様々に報道 され、バシェの音響彫刻が再び世に知られていくことになる。また、坂本龍一氏が桂フォーンの音を録音し、新曲に使用することにも 繋がった。

 2016 年秋、万博鉄鋼館からの要請で残った音響彫刻の部材を東京藝大に搬送、保管し、調査を行うことになった。その結果 2017 年、 音響彫刻修復が藝大クラウドファンディング候補となり、東京藝大取手校地のファクトリーにて勝原フォーンの修復が決まり、夏から 修復が始まった。この時問題になったのが「どう修復するのか?」ということである。東京藝大には美術作品の修復の学科があり、 多くの美術品の修復を手がけている。そこには、美術作品の修復における基本的な事項があり、彫刻作品でもあるバシェの音響彫刻の 修復の方向性の問題が浮上した。楽器の修復の観点からは、パーツを変え、リフィニッシュして使えるようにするのが一般的ではあるが、 果たしてそれで良いのかという疑問が浮上した。この点においては、かって国立劇場で古代楽器の修復に携わった木戸先生の意見を聞く こととなった。かなり古いものなら工芸品、美術品の修復の例に沿うことになるが、近代の作品の場合は美術界においてもどう作品を 修復するのか?が問題になっている。 実は、先の音響彫刻修復においても、オリジナルのホーンが破棄されたり、パーツの取り替えが生じた時の記録などが残っていなかった り、オリジナルの作品の修復の過程、記録の問題があった。実は修復の時の参考になるべき、大阪万博の時の音響彫刻の記録がほとんど 残っていない。17作品はフランソワ・バシェのスケッチをもとに作りながら考えられて出来上がった作品であり、その過程の記録がほ とんどなく、出来上がった作品の簡単な記録もない。もちろん当時の工業製品を多く使っているとはいえ、材料の記録もなく、弦やガラ ス棒を使用した作品は音階があり「当時どのように調律されていたのか?」の問題が残されていた。せめて報道番組などで音が記録され ていれば良かったのだが、NHK などの番組も破棄されていた。形態は残された部材や、スケッチや写真をもとに類推することができるが、 音のことは記録、アーカイブがないことには再現しようがない。つまり、現代の作品も音のアーカイブを行っていない限り、将来におい て推し量ることは難しくなってくる。バシェ音響彫刻の修復で見えてきた問題点は、現在の新しい楽器を使用した、新しい楽曲。テクノ ロジーを用いた新しい美術作品などにも将来言えることである。作品をどうアーカイブしていけば良いのだろうか? 新しい楽器の可能性 今回の AMC のコンサートで感じたのは、今問題になっている、「身体性」「リアリティ」「旧来の演奏方法にとらわれない音楽」などが、 この音響彫刻に触れ、演奏することで、問題点をより明確にし、一つの解決する道を示したことかもしれない。 50 年前の「新しい楽器」がもたらした「新しい音、音楽」そして今それに触れることができる「新たな聴衆の誕生」、楽器に触れること ができる聴衆。これらのことは、もう一度咀嚼してみる必要があるのではないだろうか?そう考えながら勝原フォーンの演奏に聞き入っ ていた。 バシェ音響彫刻修復プロジェクト 元代表 川崎義弘

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